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“よい会社”“強い会社”とは?茨城から世界一を目指す2代目社長の挑戦!

経営者の情熱を発信する “Project CHAIN”第26弾。今回は、世界トップレベルの加工技術を生かしてグローバルに事業を展開する、株式会社野上技研 代表取締役の野上良太(のがみりょうた)さんです。
野上さんは、「研削加工の名人」と呼ばれたお父様から事業を受け継ぎ、その超精密な加工技術に設計開発力や徹底したマーケティング活動を掛け合わせ、国内外に販路を拡大してきました。
現在は、電池開発において大手企業や研究機関が抱える課題を解決する製品・サービスを手掛けるなど、ソリューション提供を中心とした事業を展開しています。
野上さんのこれまでの軌跡、そして追い求める“よい会社”“強い会社”への思いについて伺いました。

「研削加工の名人」から受け継がれた技術

-企業の歴史を辿ることができるショールームがとても印象的ですね。

ありがとうございます。ショールームの入り口に古い研削盤を展示しているのですが、これは私の父が創業した際に使っていたものと同じ機械です。「研削加工の名人」と呼ばれた父は、この機械1つで独立し、刃物部品の加工を始めました。これが当社の始まりです。

小学生の頃の野上社長。先代が使用していた加工機と。

-野上さん自身はいつ頃から会社を継ぐことを意識されたのでしょうか?

私が子どもの頃は自宅が工場の2階にあり、油臭い環境で育ちました。学生の頃から休日には工場を手伝っていましたし、社員と一緒に住んでいたこともあります。

長男だったため、小さい頃から周囲の人に「2代目」「跡継ぎ」と言われてきました。両親からは何も言われませんでしたが、そんな環境だったので自然に継ぐものと思っていましたね。

-大学卒業後はすぐに野上技研に入社されたのでしょうか。

はい。私自身は一度他社に入社して外の世界を学びたかったのですが、父からすぐに入って欲しいと頼まれ、22歳で専務として入社し、茨城工場を任されました。

入社して強く感じたのは、技術レベルの高さでした。当時から、当社の製品は大手工作機械メーカーの基準器にも採用されていたほどで、世界トップレベルの研削加工技術を確立していました。しかも父は「高度な技術をシステマチックにできるようにするのがプロだ」という信念のもと、技術を社内にしっかりと伝承していたのです。

超精密な研削加工技術を若い社員も習得している

入社して抱いた危機感と、転機となった新規事業への進出

一方で、「このままではいけない」という危機感を持ちました。他社では出来ない研削加工技術を持ちながら、いわゆる下請加工が中心で、かつ1社に依存している状態だったのです。そのため、営業や設計、管理部門がなく、パートさん以外は社員全員が現場で加工を行っている状態でした。「技術革新によって当社が生産する部品が不要になったら会社が潰れてしまう」と大きな焦りを感じました。

「下請ではなく、いずれは世界の一流企業と対等なパートナーとして付き合いたい」という思いがこの時に生まれました。

-その思いをどのように実現させていったのでしょうか?

私自身が他社で働いた経験がないため、入社当時は就業規則と組織づくりに試行錯誤しました。今振り返っても、これまでの人生で最も歯がゆく辛い時期でしたね。組織づくりについては、役割と責任を明確にしないまま名前だけの管理職を作ってしまい失敗するなど、ある程度の組織体制になるまでに約10年を要しました。

事業面での大きな転機は、入社1年後に偶然、商社の方が誘ってくれて2週間のヨーロッパ視察に参加したことです。世界に名だたる工作機械メーカーやプレス加工メーカーを訪れ、同行したプレス企業の方々から無知であった金属プレス加工についていろいろと教えていただく中で、「うちの強みである研削加工技術を生かすためには、プレス金型に参入するべきだ」と考えました。

当時国内はモールド金型(プラスチック加工用の金型)が全盛で、父もモールド金型への参入を目指していました。しかし、その分野では当社の技術はあまり生かせず差別化できないため、近いうちに中国・韓国メーカーに追いつかれてしまうと感じていました。

そこで、帰国してすぐ父に「うちはモールドではなくプレスをやるべきだ」と訴えました。モールド事業立ち上げのために入ってくれた幹部社員もいる中、難しい決断でしたが、父を説得し、プレス金型参入に大きく方針転換しました。

結果的にこの決断が奏功し、当社の加工技術を最大限に生かした金型設計やプレス加工を事業として確立することで、利益を大きく伸ばすとともに、下請けではないビジネスモデルを実現することができました。

左/加工技術を生かしたソリューションを提供するラボ
右/電池開発者の課題を解決する独自製品を開発

お客様にとって本当に価値のある事業を

-社長には何歳のときに就任されたのでしょうか?

38歳です。ただ、それ以前から経営に関しては任されていたため、早く社長になりたいという思いは特にありませんでした。しかし36歳のある日、恩師から「早く名実ともにトップになるべきだ」と言われたことがきっかけで、思い切って父に「いつまで社長をやろうと思っているのか」と聞きました。すると父は「1年半後に譲る」と即答したのです。こちらが拍子抜けしてしまうほど、父の決断は早かったですね。

それから社長に就任するまでの間に、当社にこれまで無かった経営理念を作りました。この時に考えた「こだわりと誠意あるモノづくりで価値ある製品とサービスを創造し社会に貢献する」という理念は、今も変わらない当社の大事な指針になっています。

-社長になって特に力を入れて取り組んだことはなんでしょうか?

海外展開です。当時は、プレス事業の経験を活かし、加工が難しい電池材料を精密に打抜き加工できる製品を開発し、国内のリチウム電池メーカーや自動車メーカーに広く納入していました。当社の製品は欧米でも通用するのではないかと思い、2011年にドイツの展示会へ出展し、その後は欧米の展示会へ出展と引合いをいただいた先への訪問を繰り返しました。今では、20か国以上に輸出しています。

-弟の哲也専務の存在も大きいのではないでしょうか?

はい。これまで事業を進めてこられたことは、専務の存在が本当に大きいです。彼は長野県諏訪市のメーカーで設計を学んだ後、「兄貴を支えたい」と言って当社に入ってくれました。ゼロから1を生み出す設計機能が社内に備わったことにより、自社製品の開発を邁進させることができました。現在は、研究センター長を兼務して新規事業の立ち上げに取り組んでもらっています。

若い時は意見の相違でぶつかり合ったこともありましたが(笑)、私を支えてくれる、最高のパートナーです。

野上さんが厚い信頼を寄せる、弟の哲也専務(写真右)とのツーショット

社員が誇れる“よい会社”“強い会社”を目指して

-野上技研は今や、国内外の名だたる企業と直接取引されています。入社した頃の思いは実現されたように思えますが、今後の展望をお聞かせください。

今よりももっと「よい会社」、「強い会社」になっていきたいです。「よい会社・強い会社になろう」というのは当社のスローガンでもあるのですが、端的に言えば「社員がやり甲斐と達成感を持ち、社会人として成長できる会社」が「よい会社」、「お客様へ真の価値を提供し、十分な利益を確保できる会社」が「強い会社」だと考えています。

より「強い会社」になるため、技術を追求するとともに、お客様の期待を超える品質や安全性・使い易さを備えた製品の開発、そして商品の購入のしやすさや購入後のサポートまでのサービスを含め、総合的な価値を提供できる企業を目指しています。「茨城にある野上技研の製品、サービスは世界一信頼できる。野上の商品以外は使いたくない」と言っていただけるような存在になりたいですね。

そして、社員が自分の仕事、自分の会社に誇りを持ち、家族や友人に胸を張って自慢できる。そんな「よい会社」をこれからも目指していきます。

【企業情報】
 株式会社野上技研
 代表取締役:野上 良太(のがみ りょうた)
  東京本社:東京都目黒区目黒本町5丁目9番3号
  茨城工場:茨城県常陸大宮市泉1136番3号

【編集後記】
野上良太社長、哲也専務と筆者の出会いは8年ほど前に遡ります。今回、コロナ禍を経て久し振りに訪問が叶いました。電池業界向けの製品開発といった新たな事業の展開、そして「社員がもっと誇れる会社にしていく」というお二人の情熱は、益々パワーアップしているように感じました。今後の更なる展開に注目です。
                           派遣特派員MH

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