マガジンのカバー画像

Project CHAIN

43
地域で頑張る企業・経営者にはそれぞれの物語があり、思いがあります。地域で果敢に挑戦する情熱を持った素晴らしい人達のビジネスの肝や、取組にかける思い、苦難を乗り越えた秘訣などを紹介… もっと読む
運営しているクリエイター

記事一覧

固定された記事

地域で紡がれる「物語」をつなぐ

Project CHAIN 始動します。 はじめまして! 私たちは経済産業省関東経済産業局に所属する職員が部署横断で集う有志チームです。 私たちは仕事柄、経営者の皆さんの思いを聞かせて頂く機会があります。 生まれ育った地域や従業員に対する想い、苦労を乗り越えた経験談など、思わず時間を忘れて聞き入ってしまうようなことも多く、こうした経営者の皆さんにお会いすることは、私たちにとって”ココロ震える瞬間”です。 “ココロ震える瞬間”には、それぞれの物語(story)があり思いが

「お菓子を通して社会へ笑顔を届けたい」目指すのは「人に優しく危機に強い会社」~厳選した品揃えで地元川越から和菓子業界の常識を打ち破る!!~

専業主婦から突然の承継、支えてくれた家族と社員-会社を承継されることは、社長ご自身の中で、いつ頃から意識していらっしゃったのですか。 住居と会社が一体で、仕事を手伝うのは当たり前の環境で育ってきました。年子の姉と2人のいとこも同じ家で暮らしていて男手が多かったこともあり、当時はまさか自分が会社を継ぐなんて思いもしませんでした。しかし、社長であった父が病気になったことがきっかけで、私に打診がありました。当時私は37歳で、子育ての合間に会社を手伝うことはありましたが、専業主婦と

「面白い!」を何よりも大事に!新しいことにチャレンジし続ける極意とは

女性役員の「先駆け」として-テトラ・アビエーション株式会社に入社されたきっかけを教えてください。 もともと行政書士として仕事をしていたのですが、代表取締役である中井さんの知人から紹介を受けまして、「ベンチャー企業にも航空機が作れるんだ。すごいなあ!」と思って面白そうだから入社しました。 当初は社員として労務管理等を担当するようにお願いされ入社したのですが、入社して1~2週間後急に役員になってくれないか打診があり、驚きのあまり「聞いてないです!」と言ったことを今でも覚えており

業界にイノベーションを!食品流通革命児が世界の夜明けに見るものは

暗闇の中で見つけた革命の果実-起業を決意したきっかけをお教えください。 将来は父の跡を自分が継ぐのだろうと思い、家業の冷凍機会社で働いていましたが、業界の先行きを見るとビジネスモデルにも限界があり、どうも暗い先しか見えなかった。自分は本当にこのままで良いのかと自問する中で、30代の時に自分探しの旅をしようと思い、東南アジアの国々を巡りました。 タイである果物を初めて口にしたのですが、それは現地栽培のマンゴスチンでした。とにかく甘くて鮮度が高い、こんな果物を日本でも食べること

「ナマステ!」スパイスを愛し、地域から愛される親子の物語

「はい、出来ます!」の気持ちを大切に byマハラジャの会長-井上スパイスを起業しようと思った経緯を教えてください。 和人会長:実家で唐辛子を栽培していたこともあり、小さい頃から辛いもの好きでした。その影響もあって自然とスパイスに興味が湧き、業務用のスパイス製造会社に就職しました。その中で、より多くの方々にスパイスの魅力を伝えたい、食卓のテーブルに近いスパイスを作りたいと思うようになりました。そこで、少量かつ安価な家庭用のスパイス商品を作るために起業したのです。 -和人会長

「失敗大歓迎!」その裏にある社長の想いとは

学生時代から抱いていた経営者の道-クフウシヤを起業した経緯を教えてください 学生時代から漠然と経営者になりたいと思っていました。20代はまずは経験を積まなければと思い、ITの営業職など6年ほどサラリーマンを経験しました。その間も経営について学びたいと考え、MBAに通ったり、中小企業診断士の資格も取得しました。 -その後、クフウシヤを起業したのでしょうか? まずは父が独立して飲食店をやるというので、仕事を手伝うことになりました。そこで、大きな失敗を経験しました。飲食店を3

「信頼するということ」従業員が輝く職場をつくるために

テニス一筋の学生時代。大学卒業後は現場を経験-津覇社長の経歴を教えてください 10歳の時に、近所にテニスコートができたことをきっかけにテニスを始めました。その後、小中高大とテニスを続け、現在でもシニアの選手として55歳以上のクラスで大会にも出場しています。8年前からは指導者として白井市の男子監督も兼務しています。 大学卒業後は、沖縄出身の祖父が上京して設立した鉄道車両等を製造する会社の現場で働いていました。亡くなった祖父は非常に人間味のある人柄でしたね。あるとき、私のテニス

先見の明で、常に前へ突き進む 世の中に必要とされる会社を目指して

作業着姿で働く父の背中を追いかけて-藤池社長がデサンに入社されるまでについて教えてください 子供の頃から工場で社員と一緒に働いている作業着姿の父が好きでした。「作業着」に憧れがあったのかもしれません。父は日々忙しそうで、「お父さん」として一緒に居る時間は少なかったと思いますが、夏休みになれば社員のご家族と一緒に旅行へ出かけたりもしていました。当時社員は15名くらいで家族同然でした。 会社を継ぐことに抵抗はなく、むしろ継ぐことを前提に生きてきた感じです。 大学で化学を専攻した

人とモノとコトを心地よい関係でつなぎたい。

母を助けたい、その一心で入社、そして社長に-会社を継がれたきっかけは何ですか。 小さなころから工場に出入りはしていましたが、高校卒業後は一般企業に就職したこともあり、まさか会社を継ぐとは思っていませんでした。元々会社は父が社長で、父の兄弟が専務、そして母も工場の作業を手伝いながら経理を担当していました。母は私が小学4年生の時から祖父の在宅介護もしており、本当に大変そうでした。両親と家族旅行が出来たのはたった一度きりです。 そんな母から、「経理を手伝ってほしい」と声をかけられ

80年以上地域で愛される『中央亭の餃子』を引き継いでいくために~未来を見据えて~

家業である「中央亭」との関わり-家業に携わったきっかけを教えてください。 中央亭は、私の祖父母が80年以上前にビルの一角を間借りして創業した、カウンターに8人程度が座れる小さな中華料理屋がその始まりです。 最初はラーメンやチャーハン、餃子など一品料理を提供する一般的な中華料理屋でしたが、ある時から「中央亭の餃子が美味しい!」と巷で評判になり、そこから餃子の提供一筋となりました。祖父母はリヤカーをひいて、餃子を販売していたこともあったそうです。 その後、父が事業を継いで沼津

第1回Project Real CHAINを開催しました

-Project CHAINの記事のご感想や周りからの反応を教えてください。 大出さん:当社を知っていただく機会が増えたと感じます。会社のHPのお知らせにProject CHAINに掲載された旨とURLを載せました。外部のHPに掲載されると、検索エンジンで検索するときのキーワードが増える効果があります。Project CHAINが国の機関が運営するnoteだからなのか、検索エンジンで検索するとかなり上位に表示されるのが良いですね。 吉田さん:当社でアルバイトの募集を行った

~経営を立て直すきっかけは周囲の人との「ご縁」から~地域を牽引する2代目社長の次世代に繋げたい思いとは

「やりたいこと」に出会えた若き日々ー社長就任までのエピソードを教えてください。 私は2代目ですが、父親の跡を継がなければいけないと思ったのは小学校6年生の時でした。友人が中学受験で自分の将来を決めたことを知り、自分も大学は家業に関連がある電気工学系の学部を目指すことにしました。 大学卒業後は父の会社に入る前にいろいろな経験をしておきたかったので、自社の近くにある日立製作所に勤めることにしました。日立製作所では工業計器の設計部門に配属され、当時最先端の半導体ストレインゲージの

パンで世界中の困っている人々を救いたい。町のパン屋さんの飽くなき挑戦。

墜落事故から生き残った父から受け継いだ社会貢献への思い―秋元会長の幼少期や学生時代について教えてください 幼少期から家の手伝いで、パンを並べたりしていました。小学校4年生の時、自転車を買ってもらって嬉しかったのですが、近くの工場にパンを届ける仕事も与えられてしまいました。秋元と仲良くすると残ったパンがもらえる、ということで友達がたくさんできましたね(笑)。 両親がクリスチャンだったこともあり、大学時代はクリスチャンホームという地方出身のクリスチャンの集まりに所属しており、ア

4代目社長が受け継いだのは「会社」ではなく「想い」だった。他楽(ほからく)の精神でチャレンジを続けて目指すものとは

憧れだった父を追いかけて経営者になるために入社し、創業者の想いに触れることで自社の役割を再認識ーいつごろからお父様の後を継ぐことを意識しましたか。 小学6年生の時に、ホテルの改装で休業となった期間があり、父と過ごす時間が多くなりました。その時に父から「清水は世界から人が呼べる地域だ。自分がやっている仕事には明るい未来がある。」という話を語って貰いました。誇りややりがいを持って家業に従事する父がとてもまぶしく見えて、経営者に憧れました。それからは迷うことなく経営者になる進路を