親としての生き様を伝えたい。波瀾万丈の軌跡の先に、「足利織物」の復興を。
足利地域の繊維産業の復興に向けて
-オフィスに入ってすぐ、お洒落なメンズシャツやレディースのストールが目を引きますね!
ハイブランドのコレクションアイテムや地方創生イベントのTシャツなど、当社で製造した試作品です。創業間もない頃のものから、近年、パリコレブランドなどに採用された足利銘仙の生地もあります。
足利銘仙は独特のかすんだ模様が特徴で、大正から昭和初期にかけて和装の庶民着として大流行しました。しかしその後、洋服が一般的になり、20年程前に生産が途絶えてしまいました。
足利銘仙は生地に様々な表現ができる奥行きが深い点が特徴です。幅の狭い着物地ではなく、約3倍に広げた洋服地の規格で製造できれば高級ファッションの世界でも通用するのではないかという想いで、足利銘仙の復刻・技術革新による洋装市場での挑戦に至りました。
-足利地域の復興に向けてどのような取組を行っているのですか。
取組の1つに、足利地域の各工場の在庫生地を活用した「産直アパレル事業」が挙げられます。当地のアパレル工場には、ほんのわずかな規格違いや納期遅れなどの理由により納品できなかった上質な生地が在庫としてたくさん残っていました。工場のほとんどが下請けであるため、自分たちで販売するルートを持っておらず、せっかくの高級生地が倉庫で眠ったままになっているという現状を目の当たりにしました。そこで、工場の在庫の中から高品質の生地を探して買い取り、シャツやストールなどの製品を足利地域で一貫生産してオリジナル商品として販売しています。
地元の足利に戻って起業する際、本当に何もないところからのスタートでした。経験や知識もない、設備もありませんでした。周囲の理解も得られず、糸の1本さえ買わせてもらえないこともありましたが、繰り返し、繊維事業者の皆さんと対話することで徐々に仲間が増えていきました。多くの想いやストーリーが込められた足利織物をブランドとして価値を高めることで、お世話になった方々に恩返ししていきたいです。
波瀾万丈の軌跡と我が子への「親としての生き様を伝えたい」という想いが背中を押して
-生い立ちを教えてください。もともと繊維産業とゆかりがあったのですか。
父は農分野の研究者、母は薬剤師で、実家は2人が創業した医薬部外品や健康食品の小さな工場でした。母方の実家が機屋(織物会社)を営んでいたのですが、小さいころ遊びに行ったときに、ガチャ、ガチャといった織機の動く音が耳に残っているという程度で、特に興味もなかったため、繊維産業に自分が携わるとは思っていませんでした。
私が8歳の頃に父が他界しましたが、それからは「母一人しかいないのだから、頑張れ」という発破を周囲からよくかけられていました。もともとは内気な性格だったのですが、必然的に負けん気が強い野心家タイプに変化していきました。自身の環境を言い訳にしたくなかったので、一心不乱に勉強し16歳で大学入学試験検定に合格し、都内の大学に入学しました。
大学では経営学を学び、消費財メーカーに入社しました。入社1年目に証券管理・運用を任され、アジア・欧州・米国とグローバルにマーケットを観察する重要性、そして、多様な経済価値の評価方法があると学びました。短い在籍期間でしたが、このときに培われた感覚がその後の事業展開に活かされています。
-様々なご経験の後にUターンして起業に至るのですね。きっかけはあったのですか。
メーカー在職時に、新規上場企業のアナリストレポートをよく読んでいたのですが、そのうちに自分自身で起業したいという想いが強くなり、実行に移すべく、まずは飲食業で起業しました。ブランディングに力を入れ、六本木などの都内主要エリアで複数の店舗を展開していました。しかし2008年のリーマンショックの影響で資金を消失させてしまったのです。
無一文となり失意の中でUターンしたのち、織物工場を営む叔父から在庫生地の販売を依頼されたのが繊維業に携わるきっかけとなりました。この経験が私にとっての大きなターニングポイントでした。営業としてパリやミラノの有名ブランドに半ば飛び込みで生地を売り込みにいったのですが、有名ブランドが足利織物の価値を高く評価してくれました。私自身、足利織物の可能性を肌で感じた瞬間でした。
しかし、ちょうど1年が経ったころ、自分が悪性リンパ腫であることが発覚したのです。再び失意のどん底に落とされたときに、子どもを授かりました。「困難に負けずに挑戦し続ける姿を見せたい」、「ファッションという形に残る仕事で自分が生きた証を残したい」という我が子に対する想いが、私を突き動かしました。
当時は、動けるうちに父親として何か大きなことに挑戦する姿を見せたいという思いが強かったです。自分自身も母の働く姿を見て、奮起したという原体験がありましたので、子どもにそんな姿勢を見せたかったのです。
海外に渡って有名ブランドとの対話を重ねるうちに、足利の繊維産業がまだまだ高い技術力を持っていることが確信に変わっていきました。他方で、足利の繊維事業者は完全に自信を無くしていました。産業全体の衰退も激しいため、繊維はダメだという空気が蔓延していました。自信を無くしてしまうと新たな挑戦意欲もわかず、悪循環に陥ります。
まずは誇りを取り戻すべく、昭和の庶民着「足利銘仙」を現代ファッションの最高峰であるパリコレで復活させること目指し「ガチャマンラボ」を創業したのです。
これから紡いでいきたい未来に向けて
-まさに波瀾万丈の人生を歩んできた高橋代表ですが、大切にしている言葉はありますか。
「異端を恐れるな、常に挑戦者であれ」という言葉です。世間から見れば自分の行動は常識外れの連続です。もちろん、大変な思いもたくさんしてきましたが、それらは全て大きな糧となり新たな挑戦につながっています。そして何より、日々、生きていることが本当に楽しいと思えています。
-小説にできそうな今までの軌跡を教えて頂きました。高橋代表のこれからの夢を教えて下さい。
創業した頃の目標は、足利銘仙をパリコレに持っていくことでした。庶民着だった足利銘仙が高級ファッション市場で採用されれば、世界が変わると思っていました。「足利銘仙をパリコレに」なんて、当初は笑い話でしかありませんでしたが、ようやくその目標を達成できました。
次の目標は、足利銘仙を日本を代表するような地域ブランドにすることです。銘仙には織物としてだけではなく、歴史やアートという点でも高い価値があります。海外ブランドとの資本提携や生産拠点の誘致、NFT(ブロックチェーン上に記録される非代替性トークン)の発行によるデジタルブランディングなど、各所と協力しながら実現し、生きているうちに「ガチャマン」を成し遂げたいと思っています。
【企業概要】
ガチャマンラボ株式会社
代表取締役 高橋 仁里(たかはし きみさと)
栃木県足利市山川町30-2