4代目社長が受け継いだのは「会社」ではなく「想い」だった。他楽(ほからく)の精神でチャレンジを続けて目指すものとは
憧れだった父を追いかけて経営者になるために入社し、創業者の想いに触れることで自社の役割を再認識
ーいつごろからお父様の後を継ぐことを意識しましたか。
小学6年生の時に、ホテルの改装で休業となった期間があり、父と過ごす時間が多くなりました。その時に父から「清水は世界から人が呼べる地域だ。自分がやっている仕事には明るい未来がある。」という話を語って貰いました。誇りややりがいを持って家業に従事する父がとてもまぶしく見えて、経営者に憧れました。それからは迷うことなく経営者になる進路を選びました。
ー入社した際にどのようなことに取り組まれましたか。
銀行に2年間勤めてから入社したのですが、銀行を辞めて入社したことに対して、「せっかく良い企業に就職したのにもったいない。この地域の未来は明るくない。」と周囲の人たちから言われることがありました。
そのように言われることで、自分の中では、父が語っていた明るい未来とのギャップを感じ、反骨精神が芽生えたことを覚えています。
そんななか、「この地域には明るい未来がある」と言っていた父の原点・原動力を知りたくなり、過去を振り返ってみようと考えました。資料などを調べてみると、清水から観た富士山の写真が色々なところから出てきたのです。創業者である曾祖母は、清水から富士山を観て、この景色は世界から人が呼べると感じて海の家を作り、地域と共に育つという精神と、「働く」の語源とも言われ、他人を楽にするという意味の「他楽」の精神を大事にしていたことが分かりました。その時に、改めて自分が引き継ぐ会社の役割を認識することができました。
憧れだった父との衝突。逃げるように大学院に入学。
ー入社後のお父様との関係はいかがでしたか。
銀行員出身ということもあり、入社直後の私は数字上で事業の評価をしていて、事業が上手くいっていない理由としてマーケティングの知識が足りないという主張をしていました。一方、父は経営者としての気合いが足りないと主張しました。そんな風に自分と父とでは経営スタイルが違っていて、当時は喧嘩ばかりしていました。こういった背景もあり、早く自分の考えを経営に反映させたいと考え、5年後に事業承継すると決めて、5カ年計画を策定しました。そして、経営者になるまでに5年間という時間をもらえたので、経営を学問的に学びたいと考え、MBAの取得のために大学院に入学しました。
ー大学院での経験はどうでしたか。
恩師から「事業承継は第二創業である。創業者は自分で会社を創っているので自分の想いが会社に反映されるのは当然のことだが、事業承継の場合は、自分で創った会社を経営するわけではないので、自分の想いというものがより重要になる」という言葉をもらい、ハッとしました。当時は社内改革に注力していたのですが、自分で考えた新事業を進めるべきだと気がついたのです。
頭を下げる覚悟で出した料理を食べたお客様が流した涙
ー大学院から戻られた後に新事業として取り組まれた、食と医療を掛け合わせた「メディシェフ」事業はどのようにして考えられたのですか
あるとき病院からかかってきた「糖尿病の患者さんでも食べてくれる料理を作ってくれないか」という1本の電話がきっかけとなり、糖尿病患者さん向けの料理の開発を始めました。
ただ、試食会に向けて試行錯誤したものの、美味しいと思える料理が思うように作れずにいました。試食会の当日、シェフと自分が頭を下げて謝罪する準備をしていたところ、試食したお客さんが自分たちのところにきて涙を流しながら「ありがとう」と言ってくれたんです。自分たちは大変驚き恐縮しました。
一方、別の機会で試食をしてもらったときには、患者さんから「あなたたちは何も分かっていない」と言われたことがあったのです。自分たちとしては豪華な美味しい料理ができて、きっと喜んでくれると自信があったのでとても驚いたのですが、理由を聞いてみました。そうすると「自分たちは美味しい料理が食べたいわけではない。私たちが一番辛いのは、みんなとの食事の時に自分だけ違う料理を食べないといけないこと。みんなといるのに孤独を感じる。この孤独を解決してほしい。」とおっしゃったのです。
自分たちは、患者さんはおいしい料理を求めていると思い試行錯誤してきましたが、患者さんが本当に欲しかったのはみんなと共有できる時間だったのです。そこで、我々は患者さんと健康な方の双方が同じ料理を美味しく食べられるよう、開発を進めることにしました。
このような経験から、自分たちが創る料理の可能性の大きさを改めて痛感しました。
指摘された志の低さ。立ち戻った創業者の想い。
ー各事業で地域の方々と協力しながら事業を進めていらっしゃいますが、協力体制を構築するコツはありますか。
メディシェフ事業などの新事業も最初は中小企業として生き残るために考えたアイデアでした。ただ、取り組んできた健康食事業が2016年のジャパンヘルスケアビジネスコンテストで優秀賞を受賞したときに、審査員から「あなたたちがやっていることを進めても世界は変わらない。別のホテルや家庭でも作れるような工夫をしないとダメだ。志が低い。」というコメントをもらいました。
中小企業として生き残るために独自性を追求していたので、このコメントをどう受け取って良いのか悩んでいたのですが、改めて自分たちの原点を考えてみたんです。自分たちの原点は「他楽」精神です。その精神に基づき、自分たちは他の人を楽しくさせるために行動すべきだと考え、ノウハウをオープンにすることにしたのです。そうすると、不思議なことに力を貸してくれる人が地域からたくさん出てきて、地域内連携がどんどん進んでいきました。
ー経営者として大事にしていることはありますか?
現場から逃げないことでしょうか。もちろん、現場に行くことで厳しい意見をもらうこともありますが、そのような意見から逃げないことを心掛けています。社員は、そういうときの経営者の対応をよく見ているんですよ。逃げていては信頼される経営者にはなれません。健康食事業で患者さんや審査員から頂いたような厳しい意見こそが、自分たちを成長させてくれたと感じています。
経営者として葛藤したコロナ禍。そこから見えてきた未来。
ー企業経営は常に順風満帆というわけではないと思います。そんな中で竹内社長が頑張れるモチベーションは何でしょうか
とにかく経営者という職業が好きなのだと思います。苦を感じることなく24時間、経営のことを考えることができますね。それに、サービス業の場合、お客様の笑顔を近くで見ることができるのが良いところであり、その笑顔が一番のモチベーションですね。引き継いだ当初は数字しか見ていなかったのに、今は真逆のことを言っている気がします。
コロナ禍では自分たちは世の中に必要とされているのか、ものすごく悩みました。ただ、その時間で社会貢献について考え直して、地域のプロデューサーになり、「ひと」「やど」「まち」を健康にしたいというビジョンを作ることができました。お客様はもちろんですが、宿泊業に従事している人、そして地域を健康にすることが今、自分たちがやるべきミッションだと感じています。
【企業概要】
株式会社竹屋旅館
代表取締役社長 竹内 佑騎(たけうち ゆうき)
静岡県静岡市清水区真砂町3-27