夢を夢で終わらせないージャパニーズウイスキーを牽引し挑戦を続ける想いとは
こんなに人を幸せにできるウイスキーを廃棄するわけにはいかない。
原酒廃棄の危機を乗り越えて、自社のウイスキー販売に漕ぎつけるまで
―ウイスキー造りをしたい、と思ったきっかけについて教えてください。
肥土社長:元々ウイスキーが好きで「ウイスキーに関わりたい」という思いから、大学卒業後は大手飲料メーカーに入社し企画や営業を担当しました。一方で「いつか自分の酒を造りたい」という思いが捨てきれず、父から声をかけられたことをきっかけに実家の酒造会社に入社しました。
入社後、父の代まで造っていたウイスキーが気になり、父に尋ねてみたところ「うちのウイスキーは癖が強くて売れないよ」と言われたのですが、気になって飲んでみたら、すごく個性的で面白い味だなと感じたんです。それで自分の感覚が正しいのか確かめたくて、ウイスキーのサンプルを持って有名なバーのバーテンダーさんたちに試飲してもらったところ「これは面白い味だ。美味しいよ!これ買えるの?」と高い評価をいただき、その方々が他のバーを次々と紹介してくれて、そこでも同じ感想を言ってもらえました。その時にこのウイスキーをいつか世に出したい、と思い始めました。それからも色々なバーを回ってウイスキーを飲んでいるうちに、ボトルや蒸溜所ごとに香りや味が全然違うことに気づき、ますますウイスキーの奥深さにはまっていきました。
―ベンチャーウイスキーを創業した経緯について教えてください。
肥土社長:江戸時代から続いた家業は、経営不振から2004年に営業譲渡することになり、譲渡先企業はウイスキー原酒の廃棄を決定しました。ウイスキーの国内市場が縮小し続けていたこと、樽を保管する場所が必要になること、熟成させる期間が必要で市場に出るまでに時間がかかることなどが主な理由でした。
しかし、色々なバーでウイスキーを美味しそうに飲んでいるお客の姿を幾度も目の当たりにした私にとって、この決定は到底納得できませんでした。「こんなに人を幸せにできるウイスキーを廃棄するわけにはいかない。」という思いが私を動かしました。当時は大企業でさえウイスキーの在庫を減らしていた時代だったので、保管場所探しは非常に難航しました。何とか原酒を預かってくれる企業を見つけ、その企業の社長が「うちから販売したら良い」と提案してくださったことをきっかけに、「企画」の会社としてベンチャーウイスキーを創業、後の「イチローズモルト」となるブレンドを進めました。
―「イチローズモルト」と言えば、今や世界的に有名なブランドですが、はじめは無名のウイスキーだったと思います。どのように販売していったのですか?
肥土社長:価格競争では大手に勝てないので、価格ではなく味で評価してくれるバーをターゲットとして営業をスタートしました。バーでの営業の際は、自らの熱意を伝えるため、商品の説明だけでなく自分の夢も語るようにしました。「ウイスキーの蒸溜所を建てて、自分のウイスキーを造ることが夢なんだ」と。そうやって夢を語ると、バーの関係者たちが共感してくれ、少しずつ口コミで広がっていきました。徐々に月商が伸び始め、初めてキャッシュフローが黒になったのを見たときは「これで銀行からお金を借りずに済むな」と思いましたね。
―いよいよ夢だった蒸溜所建設に向けて動き出すんですね。
肥土社長:いつまでも先代からの原酒を売るだけでは、そのうち底をついてしまいます。そこで、かねてからの夢だった自前の蒸溜所建設と自社製造ウイスキーの販売に向かって動き出しました。販売までの道のりは決して平坦なものではありませんでした。当時、ウイスキーの製造免許は30年以上出されておらず、関係者全員が手探り状態で、まず、製造免許取得に向けて税務署に何度も足を運びました。また埼玉県の工業団地を借りるため、県担当者と交渉を重ね、一つずつ課題をクリアしていきました。ようやく2008年に製造免許を取得し、2011年に秩父蒸溜所で造られた初めてのシングルモルトウイスキーの発売に漕ぎつけました。
0から何かに向かっていくような仕事をしたい 挑戦を続けるグローバルアンバサダー
―ここからは吉川さんにもお聞きしたいと思います。まず、グローバルブランドアンバサダーとはどんなお仕事なのか、教えてください。
吉川さん:お客様に蒸溜所をご案内したり、国内外のイベントでのブース出展の際に商品説明をしたりしています。海外で働いていた経験を活かして、輸出に関する仕事や現地との交渉も担当しています。
―肥土社長との出会いについて、教えてください。
吉川さん:初めて会ったのは、2008年です。当時、私は都内ホテルのバーテンダーとして働いており、仲間と一緒に秩父蒸溜所を訪問しました。2008年前後はウイスキーの国内市場は底の状態で、「ラベルに漢字が書いてあるウイスキーは、客が見えるところに並べるな!」と言う人間もいたほど、ジャパニーズウイスキーの人気は低迷していました。そのような時に、蒸溜所を建設する人がいると知り、会ってみたいと思っていました。
実際、お会いしてみたら、見学者の私たちと同じ目線で、すごく丁寧に、そして真剣に説明してくださって、ウイスキーが本当に好きなんだなということが伝わってきました。
―どういう経緯で、ベンチャーウイスキーに入社することになったのですか。
吉川さん:その後、ホテルのバーテンダーを辞職し、紆余曲折を経て、ウイスキー造りを学ぶためにスコットランドへ単身移住しました。日本を離れている間も肥土社長とは繋がっていて、海外の展示会でお会いしたり、毎年クリスマスカードを送ったりしていました。肥土社長は、私がスコットランドのバーに行くことを知ると、そこのバーテンダーあてに「今度日本人の吉川という子が伺うと思うので、何か困ったことがあったらよろしくね」という手紙を書いてくれたこともあります。そういう優しい人柄が肥土社長の魅力の一つであり、色々な人が引き寄せられるんだと思います。
日本への帰国が決まり、この業界でどのように役に立てるか考えたときに、日本に戻るなら0ベースで何かに向かっていくような、ベンチャーウイスキーのようなところで働きたいと思い、日本に帰国したその足で面接に向かい、入社することになりました。時間が無かったので、履歴書は特急レッドアロー号の中で書きました(笑)
肥土社長:私としても、これから少しずつ広報系の仕事が増えてくるだろうという予感があったタイミングでした。今、吉川さんみたいな人が入社してくれたら助かるなと思い、入社してもらうことになりました。
―2019年にはブリティッシュパブを運営する会社を設立し代表になったと伺いました。会社設立のきっかけ、思いを教えてください。
吉川さん:日本には、オーセンティックバー(静かな雰囲気の中でお酒と会話を楽しむ、いわゆる正統派のバー)はたくさんありますが、パブ(地元民が集まって食事やドリンクを楽しむ「社交場」としてイギリスで発達した文化)はあまり多くありません。スコットランド滞在時から「日本にもパブ文化を広めたい」と思っており、そんな仲間たちと秩父で始めることにしました。
経営者・店のオーナーになったことで、経営者の視点・商品の取扱店としての視点が身につきました。やっぱり、給料を「支払う側」と「もらう側」では全く意識が違いますね。経営者の立場を経験できたことは、今後のベンチャーウイスキーでの仕事にも活きてくると思います。
社長が思い描く次なる夢―グレーンウイスキー製造に向けて
―お二人が仕事をする上で大切にしていることを教えてください。
肥土社長:「現場・現実・現時点」です。お客様に喜ばれる商品を造り続けるためには、販売の「現場」で「今(現時点)」何が飲まれているのか、「現実」を見ておくことが重要だと思います。家業に戻った頃からほぼ毎日バーに通っており、「現場」を把握するように努めています。
吉川さん:グローバルブランドアンバサダーとして、ブランドの良い面ばかりフォーカスして伝えるのではなく、ちゃんと目の前の「人」に向き合って、正直に丁寧に伝えるように心がけています。また、ウイスキーには造り手の人柄・想いが素直に出るので、ベンチャーウイスキーらしさを大事に、社長をはじめとするスタッフ達の真剣な熱い想いを大切に発信していきたいですね。
―数々の夢を叶えてきた肥土社長ですが、今後の夢を教えてください。
肥土社長:グレーンウイスキー(とうもろこし等の穀類を原料としたウイスキー)の製造です。これまでは、モルトウイスキー(大麦麦芽を原料としたウイスキー)製造や、ブレンデッドウイスキー(モルトウイスキー原酒とグレーンウイスキー原酒をブレンドしたウイスキー)をメインに製造・販売してきましたが、いつかグレーンウイスキー造りに挑戦してみたいと考えていました。今、その夢を実現するべく、北海道苫小牧市に新蒸溜所を建設しているところです。苫小牧は気候、水、熟成環境等、良いウイスキーを造るすべての条件が揃っています。2030年には、第1号のグレーンウイスキーを出荷したいですね。
もう1つは、30年モノの秩父産ウイスキーを飲むことです。30年モノを飲めるまであと14年、その時私は70歳を少し超えたくらいです。健康であり続けて、応援してくれている人や仲間たちと一緒に飲みたいですね。
【企業情報】
株式会社ベンチャーウイスキー
代表取締役社長 肥土 伊知郎(あくと いちろう)
グローバルブランドアンバサダー 吉川 由美(よしかわ ゆみ)
埼玉県秩父市みどりが丘49