先見の明で、常に前へ突き進む 世の中に必要とされる会社を目指して
作業着姿で働く父の背中を追いかけて
-藤池社長がデサンに入社されるまでについて教えてください
子供の頃から工場で社員と一緒に働いている作業着姿の父が好きでした。「作業着」に憧れがあったのかもしれません。父は日々忙しそうで、「お父さん」として一緒に居る時間は少なかったと思いますが、夏休みになれば社員のご家族と一緒に旅行へ出かけたりもしていました。当時社員は15名くらいで家族同然でした。
会社を継ぐことに抵抗はなく、むしろ継ぐことを前提に生きてきた感じです。
大学で化学を専攻したのも、継ぐ前提で塗料の知識を得たほうがいいと考えたからです。大型自動車の運転免許や危険物取扱者の資格も取りました。大学生の時、友人と一緒に自社でアルバイトもしていました。
父からは、「大学を卒業したら外で働いてこい。そして5年経った頃に戻ってこい。」と言われていましたので、トラックを生産している日産ディーゼル工業株式会社(現在のUDトラックス株式会社)に入社しました。これまで自社以外で働いた経験が無かったので辞め時がよく分からなかったですし、だんだん社内で頼られる存在にもなっていったので、このままここで働いていてもいいかなと思うようになっていました。しかし、それを察した父に予定どおり呼び戻されました(笑)
日産ディーゼルではエンジニアとしてプレスの生産などに携わり、設計したものをどうやってアウトプットするのかなど、その頃の経験が今に生きています。
-デサンに戻られてからどのような仕事をされたのですか
営業を担当しておりました。中学生の時から現場を手伝わされていたので、現場のことはよく分かっていましたが、唯一やったことがなかったのが「営業」で、入社後17~18年間、第一線でやりました。
営業担当になったからにはたくさん売りたい。そう強く思いながら仕事をしていました。
しかし営業を始めた1997年~1998年は景気もどん底で、新人営業マンには全然仕事が取れず、何で父の会社に戻ってきてしまったのかと思いました。二度とこんな苦しい環境にはしないぞと心に決め、何を実行するべきかを考える日々でした。
-社長に就任されて以降、ご自身のカラーを出されていったのですね
2012年4月に代表取締役社長に就任しましたが、就任して3年くらいは父と喧嘩ばかりしていました。仕事の進め方の違いで意見が合わず、その度に喧嘩になっていました。でもそれは親として、子がやることを心配してのことだったのだと感じます。
父は祖父から家業を受け継ぎ、若くして社長になり、仕事一筋でした。私と父との違いは、「家業と事業」の考え方の温度差でした。家業を観光バス1台と例えると、1台なら一人でちゃんと見られますが、事業が大きくなり観光バス2台以上になれば一人で全部を見ることはできないので、会社を大きくする段階でいろいろな仕組みを整えていかなければなりません。
今までのやり方は、社長中心の家業経営で、社員からみれば何事もトップダウンで動く仕事になってしまっていました。家業は「情」のコントロールで仕事を回せますが、事業は「仕組み」で会社をコントロールしなくてはならないと考えました。
-若手の社員も多いとのことですが、社内の人材育成はどのようにしているのですか
コロナ前は設備(箱)への投資を重視していましたが、コロナ禍は人材育成に力を入れ、今は人への投資を中心に実行しています。当社は平均年齢32歳で若い社員が多いです。基本的にOJTで、在籍期間が長い社員から学びます。また、若手だけでなく様々な階層の育成も重要だと考えています。同じ話をいろいろな階層の社員に聞いてみると、立場によって感じる内容が違うことが分かりましたので、当社では、若手も役職者も同じ勉強会やセミナーに参加してもらい、立場ごとの考えを皆で摺り合わせることで、物事を「自分事」として考えてもらえるようにしています。
また役職に就く人には全体を見てもらうためにいろいろな業務を見てもらっています。当社は、売る人(営業)も、作る人(製造)も両方経験します。だから「機会は平等」です。その機会を生かすか否かは本人次第なのです。
私自身もこちらから「最近どう?」と話しかけて、聞き手になって話を聞くことで、若い人のトレンドなどの情報を取りに行っています(笑)。会話の中にビジネスのヒントがあるのです。
-社員のどなたでも、自分や会社の成長に寄与できる機会が与えられているということでしょうか。素晴らしいお考えですね。こういうことは社長がお考えになるのですか
当社の経営理念は、「みんなが幸せになる会社」。自分が社長に就任してから考えて決めました。その中心は顧客です。自分たちにご飯を食べさせてくれるのはお客様であり、お客様中心に考えれば仕事に対する不平不満はなくなります。
事業計画については、四半期毎に朝礼で、社長である私から骨子について説明し、各部門長からは中身について説明、発表します。今は結果で評価される時代で、早出や残業が良しとされる時代ではありません。私は日頃から「短い時間で結果を出そう」と呼びかけており、バリューを高めることに努めています。残業は減っても、収入は減らないという仕組みを作る必要があります。
社員みんなでお客様を見て、お客様の課題解決について考えて実行していけば、結果として事業領域が広くなっていきます。社長が方向性を示せば話は早いですが、ひたすら我慢し黙って彼らを見守り、社員に結論を出させることも重要です。今はそれをやってきた結果が、顧客満足に繋がり、周りの環境も変わってきていると感じています。
コロナ禍で高まったニーズをキャッチし、誕生したアンバサダー「でさん子®」
-コロナ禍に誕生したアンバサダー「でさん子®」など、新しい事業を始めるきっかけについて教えてください
アンバサダー「でさん子®」は、2020年12月24日20時にWEBで公開しました。誕生のきっかけは、家族でアニメ「鬼滅の刃」の映画を観に行った際、コロナ禍にも関わらず多くの人たちが来場していたことが衝撃で、アニメは「宝の山」であり、今後の事業の柱になると直感しました。
コロナ禍では、営業部門が一番打撃を受けました。そのような中で、発信し続けていかないと仕事は無くなっていく一方なので、アニメが発信手段として使えるのではないかと考えました。「デサン」は知らないけど「でさん子®」は知っているというくらいに成長させたいです。
デジタルコンテンツ事業は、25~26年前にホームページ作成事業を始めた当時、これからはこういう時代が来ると思っていましたが、今や映像や広告媒体としてデジタルサイネージで多くの情報がディスプレイ1つで発信可能となりました。また、以前は材料販売の卸し事業をやっていましたが、2003年に卸し事業を辞め、現在は、トラックなどの大型車や路線バス、鉄道車両などのラッピング事業へ転換しています。こうして常に手を打って、先を見据えてやっていく、辞める決断も必要だと考えています。
とにかく世の中の流れに合わせて変えていく、人事も組織も変えていく。例えば営業担当だった社員を工場長にするなど、社内でもいろいろな経験が必要だと思っています。
経営者として思い描く「デサン」の未来
-仕事で悩まれた時はどのように解決しているのですか
社長に就任して数年は悩みごとばかりでした。当時は家に帰っても仕事を引きずっていました。就任して3年目の頃、悶々と悩んでいたときに、会長(父)から、「悩んでも変わらない、流れに任せる、藻掻かない」と言われました。それからは一人で考え込まない、家に持ち込まないことを心がけ、頭を切り替えるようにしています。
いろんな人に話してみることがポイントで、会合などの集まりでいろんな人と話をしているうちにヒントが出てきて、悩みを抱え込まずに済むようになりました。
-代表取締役社長として大切にしてきたこと、経営者として幸せを感じることを教えてください
「世の中に必要とされる会社であり続けたい。」そのために我々は何をやるのか、常に先を見据えて考えています。経営者もどんどん若返っていかないと、昨今の時代の変化の早さに追いついていけないので、自分が長く社長に留まりたいとは考えていないのです。常に顧客中心で考えてニーズにあったものを提供するという方針がブレなければ、自分が中心にいなくても、舵取りを間違えることはないと思います。
当社は12月決算なので、そこへ向けて全力で1年を駆け抜けます。若い頃は年末になると張っていた気が抜けてしまい、お正月はいつも寝込んでいましたが、今は寝込むこともなくなりました(苦笑)。新しい年を無事に迎え初出勤の日は、「ああ、良かった。今年も新たな年が始まる!」と幸せを噛みしめながら、全社員の前で年始めの訓示を行います。
-これから思い描く経営や社員に期待されることは何でしょうか
社員には、どこへ行っても通用する人材になってほしいです。仮に転職しても、「デサンにいたなら是非来てよ!」と、圧倒的な信用・信頼で、他の会社から評価してもらえる会社になれたらいいなと思っています。
当社のビジネスは世界と戦っているので、今、この瞬間が大事で、こなすことが仕事になっているのは駄目。社員には、内向きにならず、外を見て果敢に攻めてほしいです。これからは、自ら考え実行する力が必要であり、共に未来を見据え、実行していきたいです。