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Project CHAIN

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地域で頑張る企業・経営者にはそれぞれの物語があり、思いがあります。地域で果敢に挑戦する情熱を持った素晴らしい人達のビジネスの肝や、取組にかける思い、苦難を乗り越えた秘訣などを紹介…
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#ものづくり

地域で紡がれる「物語」をつなぐ

Project CHAIN 始動します。 はじめまして! 私たちは経済産業省関東経済産業局に所属する職員が部署横断で集う有志チームです。 私たちは仕事柄、経営者の皆さんの思いを聞かせて頂く機会があります。 生まれ育った地域や従業員に対する想い、苦労を乗り越えた経験談など、思わず時間を忘れて聞き入ってしまうようなことも多く、こうした経営者の皆さんにお会いすることは、私たちにとって”ココロ震える瞬間”です。 “ココロ震える瞬間”には、それぞれの物語(story)があり思いが

熱い想いで佐渡から日本を支える社長の想い~緑あふれる木造工場!?~

高校で出会ったアマチュア無線。ものづくりの道へ進むきっかけと起業 ―「電磁誘導」に出会ったのはいつ頃でしょうか。 農家の長男に生まれ、高校は農業高校に進学しました。高校で出会ったのがアマチュア無線部です。それまで機械などに触れることはあまりなかったのですが、その魅力にどんどんハマっていきました。コールサインと呼ばれる交信者の情報を用い、より遠くの人と交信したり、その証明としてQSLカードの交換をすることなどがとても楽しかったです。3年生になると部長に指名され、部員をまとめ

平坦ではなかった道のり~「ものづくりのまち川崎」で挑戦を続ける4代目社長

祖父から後継者として期待された幼少期、距離を置いた学生時代、入社を決心した26歳―星野社長の幼少期について教えて下さい。 私が生まれて間もない頃に父が病気で亡くなり、物心が付いたときには母方の祖父が社長で母が専務に就いていました。当時は1階が作業場、2階が住居という環境で、親子3代で生活していました。私は2人姉弟の長男であったせいか 、保育園に通っている頃から祖父には「将来はお前が会社を経営するんだぞ」と言われていましたね。 例えば、祖父と一緒にお風呂に入っているときも「

「アナログ×デジタル」で公共利益を追求! ―ものづくり父子鷹の挑戦

顧客や社会の利益のために、いきいきと働く―まずは会社設立の経緯を教えてください。 ◇秀幸さん:旋盤職人の父が営む小さな工場から35歳の時に独立開業し、ガス管やプラントの点検・工事に使われる特殊な機械や装置等を開発・製造してきました。 それほど目立つ存在ではなかった当社がブレイクスルーしたのは、2015年、当社で開発した遠隔操作点検ロボット「のぼるくん」が、かながわ信用金庫さんの勧めでエントリーした「かながわビジネスオーディション」で県知事賞を受賞したことがきっかけです。以

“よい会社”“強い会社”とは?茨城から世界一を目指す2代目社長の挑戦!

「研削加工の名人」から受け継がれた技術-企業の歴史を辿ることができるショールームがとても印象的ですね。 ありがとうございます。ショールームの入り口に古い研削盤を展示しているのですが、これは私の父が創業した際に使っていたものと同じ機械です。「研削加工の名人」と呼ばれた父は、この機械1つで独立し、刃物部品の加工を始めました。これが当社の始まりです。 -野上さん自身はいつ頃から会社を継ぐことを意識されたのでしょうか? 私が子どもの頃は自宅が工場の2階にあり、油臭い環境で育ちま

人にやさしいヒーロー社長~川嶋式経営の極意~

思いがけず社長に就任-入社されるきっかけとなった出来事について教えて下さい。 私は三兄弟の次男に生まれ、高校までは地元の栃木で過ごし、その後、都内の大学を経て製薬会社に入社しました。兄が父の会社に入ったので、そのまま会社を継ぐと思っていたのですが、事情により会社を離れていました。 そんな中、父が大病を患い、手術の前日に「会社を継いでほしい」と言われました。会社があったからこそ自分が育ったという思いがあり、思い切ってその場で承諾しました。手術は無事成功したのですが、一度引き

異業種とのコラボ!人脈を大切にした製造業の販路開拓。

-幼少期や学生時代について教えてください。 幼い頃から父親にくっついて頻繁に工場を出入りしていました。それが影響したのか機械をいじることが大好きでしたね。芸術系の大学に通っていて、映画業界に進もうと思った時期もあったのですが、その頃からオートバイに乗り始め、自分でメンテナンスを行ったり、鈴鹿サーキットまで走りに行ったりするなど、機械が好きなのだと再認識したこともあり、オートバイの専門店に就職し、メンテナンスなど整備関係の仕事を約3年間していました。 -三差製作所へ入社した

AIの活用で日本の一次産業に革命を起こしたい―第二の創業に向けて邁進する社長の挑戦!

倒産寸前の会社を承継。父のこだわりを守り、大ヒット商品を開発。-幼少期から家業を継がれるイメージはあったのでしょうか。 正直、継ぐというイメージは全くありませんでした。父への反発心が強く、父が右と言ったら自分は左と言う、そんな子供でしたし、どちらかというと自分で起業したいと思っていました。大学も家業とは全く関係のない政治経済学部に進学しました。父も私の性格を分かっていたので、家業を継いでほしいと思っていたものの直接口には出さなかったようです。 -入社されるきっかけになった

“日本初”を創り続けた会社が挑戦する表面処理の未来!

会社を引き継ぐベストタイミングとは?父の時代とは違う時代を引き継いで‥。-「日本初」へのこだわりはどのように生まれたのですか。 第二次世界大戦中パイロットだった父は、終戦を迎え一般企業に就職をしましたが、戦後混乱期の中、就職した会社が次々と倒産してしまうという困難に直面してきました。そのような中、とある商社から紹介された「フッ素樹脂」に出会い、現在の会社の前身となる東京シリコーンを創業しました。国内では新しい素材だったため、当時は何をするにも前例のない挑戦の連続だったと聞い

社員の知恵が年間1,000件以上!社長と社員をつなぐ経営計画と改善提案

幼少期から意識していた「社長」。力試しに東京に出た3代目が経営を学ぶまで。-金子社長の学生までのお話について教えてください。 祖父が初代、父が2代目社長として働く姿を見て育ったので、幼少期から社長になることは意識していたと思います。 しかし、成長するにつれて「会社を継がなければならない」というレールに乗ることへの反発心も生まれ、最終的に金子歯車工業を継ぐことは当時から決めていたものの、自分の力を試したいという思いも強く、大学卒業後は東京で就職し、営業職の道へ進みました。

“共感”がキーワード! ビッグバンドサークル設立と企業経営の共通点

ものづくりが好き!でも学生時代はビッグバンドに熱中。「共感」の大切さを学び、これが企業経営の礎に。-幼少期はどんな子供でしたか。 小さい頃からものを自分で作るのが好きでしたね。小学生の時には図面を書いてサッカーゴールやバスケットゴールを作ってました。工具が揃っている環境で育ったことが1つの要因かもしれないです。 -学生時代はものづくりに励んできたのですか。 大学時代はサークル活動に力を入れてました。ビッグバンドジャズ(サックス)をやりたかったのですが、サークルがなかった