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Project CHAIN

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地域で頑張る企業・経営者にはそれぞれの物語があり、思いがあります。地域で果敢に挑戦する情熱を持った素晴らしい人達のビジネスの肝や、取組にかける思い、苦難を乗り越えた秘訣などを紹介…
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#中小企業

地域で紡がれる「物語」をつなぐ

Project CHAIN 始動します。 はじめまして! 私たちは経済産業省関東経済産業局に所属する職員が部署横断で集う有志チームです。 私たちは仕事柄、経営者の皆さんの思いを聞かせて頂く機会があります。 生まれ育った地域や従業員に対する想い、苦労を乗り越えた経験談など、思わず時間を忘れて聞き入ってしまうようなことも多く、こうした経営者の皆さんにお会いすることは、私たちにとって”ココロ震える瞬間”です。 “ココロ震える瞬間”には、それぞれの物語(story)があり思いが

夢を夢で終わらせないージャパニーズウイスキーを牽引し挑戦を続ける想いとは

こんなに人を幸せにできるウイスキーを廃棄するわけにはいかない。 原酒廃棄の危機を乗り越えて、自社のウイスキー販売に漕ぎつけるまで―ウイスキー造りをしたい、と思ったきっかけについて教えてください。 肥土社長:元々ウイスキーが好きで「ウイスキーに関わりたい」という思いから、大学卒業後は大手飲料メーカーに入社し企画や営業を担当しました。一方で「いつか自分の酒を造りたい」という思いが捨てきれず、父から声をかけられたことをきっかけに実家の酒造会社に入社しました。 入社後、父の代まで造

地元に残る若者たちを支える!~社長が掲げる信条と経営にかける想い~

原点となる土木建築との出会い-川合社長の幼少期について教えてください。 ダムや橋、ダンプが大好きな子どもでした。私の家の近くに足尾銅山があったため、子どもの頃はよく足尾銅山に遊びに行っていました。土木の現場や大型の建築物が身近にあってずっと触れ合ってきたので、土木や建築好きな子どもに育ったのだと思います。そのため、大学では土木工学を専攻し、その後ゼネコンに就職しました。現在の当社の業務は土木建築との関係はありませんが、今も変わらず、建築物は見ていてすごく楽しいですし、私のも

宿は人なり!誰よりも社員を自慢する経営者が語る、社員への想い

辞めた社員への恨みを捨てたとき、感謝と涙が溢れてきた-経営者であるお二人は社員のことをとても大切にされていますが、それはどうしてですか。 2012年に、先代である両親が40日間ホテルを不在にすることになり、私達2人で切り盛りすることになりました。恐らく私達2人が会社を経営していけるか、試したのでしょう。 40日間、本当に大変でした。というのも、その間にホテルを支える3人の重鎮が相次いで病気で入院してしまったのです。まず総料理長が、続いて総支配人が、そして調理部門のナンバー2

常に先手先手をー「温故知新」を胸に挑戦を続ける弓具界のパイオニア

昔からやってきたことは参考になるけど・・・「なぜ?」という考えが常にあった―グラスファイバー製の弓の開発など、常に業界の先端を走る製品を様々開発されていらっしゃいます。そのアイデアの秘訣は何ですか? 弓具の世界には3種類の職人がいます。弓を作る「弓師」、矢を作る「矢師」、弽(ゆがけ。弓の弦を引く際に使用する鹿革製の手袋)を作る「かけ師」の3種類です。私は弓師をしています。 この業界には、「こうやって弓矢を作ったらよく飛ぶ」といった昔から伝えられている教えがたくさんあります。

劣等感と自問自答から得た自信。沸き立つチャレンジ精神こそ自分らしさ

新しいこと、新しい場所への探究心が導いてくれた「食」との関わり-家業であるソーセージやサラミの製造に携わったきっかけを教えてください。 私は三人兄弟の次男ですので、兄が家業を継ぐことになるだろうと思っていました。 また、小学校時代にカナダ、高校時代にドイツを訪問する機会もあり、幼い頃から知らない世界へ飛び出ることが好きでしたので、将来は故郷である佐渡を出て、海外で仕事をすることになるだろうと漠然と考えていました。 高校卒業後はドイツに留学する予定でしたが、ビザが下りなかった

人にやさしいヒーロー社長~川嶋式経営の極意~

思いがけず社長に就任-入社されるきっかけとなった出来事について教えて下さい。 私は三兄弟の次男に生まれ、高校までは地元の栃木で過ごし、その後、都内の大学を経て製薬会社に入社しました。兄が父の会社に入ったので、そのまま会社を継ぐと思っていたのですが、事情により会社を離れていました。 そんな中、父が大病を患い、手術の前日に「会社を継いでほしい」と言われました。会社があったからこそ自分が育ったという思いがあり、思い切ってその場で承諾しました。手術は無事成功したのですが、一度引き

超・印刷業が実践するデザイン経営―「おもい」を「カタチ」に!

唯一無二のデザインに込めた「おもい」-「印刷は終わった」自社の将来を悲観するようなメッセージが、スクラッチを削ることでポジティブに変わる。貴社の年賀状が話題を呼びました。 はい!これは2年前にサンコーが取引先等に送った年賀状ですが、実はその直前まで、いっそ年賀状を送ること自体止めてしまおうか、という意見もありました。 ペーパーレス化やオンライン化の進展により、印刷の需要は減少し続けています。実は、印刷業である当社ですら、ひとめ見て捨てられるような年賀状ならば、資源のムダで

地域にインバウンドの交流拠点をつくる!建設会社の新しいチャレンジ。

コロナ禍をバネに、念願の観光分野へ-バーに飾られている大きなだるまがとても印象的ですね。 インバウンドの方は必ずと言って良いほど、このだるまの写真を撮っていかれますよ。   ここ群馬県高崎市はだるまが有名なのですが、高崎祭りで「だるままとい」が披露されることはあまり知られていないかもしれません。これがとても格好いいんですよ。この文化をぜひ海外の方にも知ってもらいたいと思い、ゲストハウスを「まといホステル&バー」と名付けました。 -なぜインバウンド向けのゲストハウスを始めた

AIの活用で日本の一次産業に革命を起こしたい―第二の創業に向けて邁進する社長の挑戦!

倒産寸前の会社を承継。父のこだわりを守り、大ヒット商品を開発。-幼少期から家業を継がれるイメージはあったのでしょうか。 正直、継ぐというイメージは全くありませんでした。父への反発心が強く、父が右と言ったら自分は左と言う、そんな子供でしたし、どちらかというと自分で起業したいと思っていました。大学も家業とは全く関係のない政治経済学部に進学しました。父も私の性格を分かっていたので、家業を継いでほしいと思っていたものの直接口には出さなかったようです。 -入社されるきっかけになった

営業課長から社長に抜擢!その原動力・心の支えは「自社開発」への熱意でした

会社が大転換を迫られていた中で、ある日「社長をやってくれ」と言われたのです。-社長就任以前はどんなことに取り組まれていましたか。 私は経営陣と血縁関係が無い一社員でした。当時(1970年代)の弊社は、大手製鉄会社の協力会社であり、下請け仕事が売上の8割を占めていました。ただ、私自身は下請け仕事の担当ではなく、新製品開発担当としてお客様や商社のニーズを弊社の技術部門に持ち込み、議論しながら開発を進める仕事をしていました。あの頃は多くの人に話を聞くなど市場調査に汗を流す日々でし

「父から受け継いだノート」経営者の魂が込められた1冊のノートから経営を学ぶ!

入院中の父親から受け取った経営者の心構えが書かれたノート。-菊地さんが小学生の頃に大きな転機があったと聞きましたが。 私が小学校3年生の時に、食品会社のサラリーマンだった父が突然退職しました。突然のことだったので子供ながらにとても驚いたことを今でも覚えています。そうして、父と母が高田馬場で新しく牛肉の問屋を始めることになったのが今の株式会社旭フーズの原点です。 父は「国産牛を広めたい」という思いがあって独立したのですが、父も母も家業で忙しく、夏休みの間、私は母の実家のある小

若者からの応募が殺到!ブランディングを強化した鉄工業の魅力。

ここが鉄工所の事務所!?-貴社訪問の第一印象は「まるでカフェに居るみたい!」でした。従業員さんも若いですね。 月に何人かは「やっていますか?」と、カフェと間違えて入って来られますよ。 弊社は建設用の鉄骨を製造する事業からスタートしましたが、現在では中小企業の人財活用(HR)やブランディングをサポートする事業も手掛けています。製造業においてもブランディングは極めて重要だと考えています。 その一環として、弊社自身フリーアドレスを導入しておりまして、毎朝出社後にくじ引きをして、当

“風と太陽で刷る印刷“に挑戦する社長の情熱。「共感・共鳴」を大切に歩んできた社会課題解決型企業の姿

少年時代に感じた大川印刷への「誇り」。会社の運動会での忘れられないプレゼント-幼少期、家業にどんなイメージを持っていましたか。 当社が印刷したお客様の商品を身近に感じることが多く、家業に「誇り」を持っていました。長年の取引先の崎陽軒様が正月に向けて販売する「シウマイ年賀状」は学校でも話題になることが多く、得意げにクラスの友達に送っていたことを覚えています。 また、当社では、社員が一堂に会する運動会を年1回開催していたのですが、子供の頃から参加していました。4歳の頃に参加した